無の不気味さとLiminal Spaceという美学
無という不気味さ
無臭の世界
無臭である。先日、新型コロナウイルスに感染した。幸いにもそれほど症状は重くなく3、4日で熱も下がり、喉の痛みも引いてきた。倦怠感も一時期のことを思えば回復し、なんとかこのレポートは締切間際に提出できるかというところだが、嗅覚障害が一向に治らない。
無臭の世界というのはなんとも不思議な感覚である。味覚の方は幸い影響ないのだが、しかし食事がまったくもって楽しくない。だしの香りなどというものは微塵もせず、味噌汁もお吸い物もただの塩辛い汁である。和食というのは鼻が効くやつの道楽であると知った。
コロナ後遺症外来を専門に診ているヒラハタクリニック平畑光一院長のブログを参照すると、この『無味無臭』の世界というのは「人によっては死にたくなるほど辛い[1]」そうだが、その気持ちも十分理解できる。この世に当然あるはずのものが欠如しているという状態は、なんとも不愉快なのだ。
無とはuncomfortableである
この例に限らず、「無」とは本質的に奇妙・不気味・不快・不自然な一面を持っていると思う。ここではそれらの総称としてuncomfortableというのを用いることにする。
例えば、無言の食卓というのは多くの人にとってuncomfortableである。家族みんなが食卓に集い同じ鍋を囲んでいるというのに、全員が無言で皿と箸の触れる音だけが響いているお茶の間を見れば、おそらく誰もが不気味で奇妙だと思うに違いない。
また、例えば寝相が悪く頭で腕を押し潰しながら寝てしまい、血流を止めてしまって腕が痺れ、目覚めたとき腕から下の感覚が無くなっているというのもまたuncomfortableである。物を触っても痺れて感覚がないという奇妙さは、誰もが経験したことのあるものだろう。
無の空間というネットカルチャー
Liminal Spaceとは何か
Liminal Spaceというのがその名前だ。インターネットカルチャーやオンライン上での現象を専門的に扱うオンライン百科事典であるKnow Your Memeによれば、その定義は次のようなものだ[3]。(翻訳は望月による独自のもの)
Liminal Spaces is an architectural term that defines "the physical spaces between one destination and the next," such as hallways, airports and streets.In meme culture, the understanding of a "liminal space" is less strict and can be applied to any empty place built by humans that looks dissonant with reality for any subjective reason. Online, they also are referred to as "images with elegiac auras," "places that feel strangely familiar," "places you've been to in your dreams," etc. The images are sometimes considered a subgenre of cursed images.(リミナルスペースとは、廊下や空港、道など「今いる場所と目指す場所との間にある物理的な空間」を指す建築用語である。ミームカルチャーにおいては、リミナルスペースの解釈はそれほど厳密でなく、主観的な理由によって現実から切り離されているような、人工的に作られた何もない空間のことを指す。オンライン上では、「悲しいオーラがある画像」「奇妙な親しみを感じる場所」「夢の中で訪れたことのある場所」などのことも指す。それらの画像はしばしば、呪われた画像の一種であるとも考えられている。)
Liminal Spaceの例
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 29, 2023
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 29, 2023
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 23, 2023
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 23, 2023
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 23, 2023
Liminal Spaceの分析
では、Liminal Spaceは何を持ってLiminal Spaceであると認められるのだろうか。以下に記述するのは、各種文献を踏まえた私の考えである。
まず、すべてのLiminal Spaceとされる画像に共通していることとして、無人である。さらに付け加えるなら、動物や虫も登場することはないため、一部の画像に登場する植物を除いて基本的に無生物である。
そのような要素として、まず無音である。画像の中に、人間はもちろん画面のついたテレビや流れのある水など、音を発すると考えられるものが無い。
続いて、空間の奥行きを強調させたようなものが多い。広角レンズで撮影することによってパースが強くかかっていたり、透視図法を用いることで奥への空間の広がりが強調されていたりすることがある。特に廊下を写したものでは、以下の例にように奥が暗闇になっていることで無限に空間が続いているように感じさせるものもある。
— Liminal Spaces (@SpaceLiminalBot) April 18, 2023
また、水平垂直の感覚が無いものも多い。Liminal Spaceの文脈に忠実に沿っている画像には、その傾き度合いに差があれど撮影したカメラが傾いているため、通常人間の視界に映るように水平垂直な視点でないものが多数ある。
このように、無人・無生物・無音・無限の奥行き・水平垂直の基準が無いなど、Liminal Spaceとは人工的な空間における「無」の極致であり、それによって先述の定義の中でも記述があった「悲しいオーラ」「呪われた画像」など「無」のuncomfortableを見るものに感じさせるというのが私の分析である。
Liminal Spaceはなぜ不気味か
このように「無」が持つuncomfortableな本質こそがLiminal Spaceを不気味に感じさせるというのが私の主張だが、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論分野の修士である銭清弘は自身のブログでLiminal Spaceがなぜ不気味なのかについて以下の2つを指摘している[4]。
①写真メディアが持つ特異性による効果
彼はまず、写真というメディアそのものが持つ不気味さへのポテンシャルを指摘する。
他の条件が等しいときに、絵画ではなく写真なんですと伝えられること自体に、不気味さを増すなにかが含まれている、というのはむしろありふれた直観ではないだろうか。心霊写真や呪いのビデオが一大カルチャーを築いているのも、文化的に根深いところでメディアと結びついた不気味さの感覚があるからだろう。「写ってはいけないものが写ってしまう」不気味さは、写真メディアに特有であって、手描きの画像にはなかなかないものだ。[4]
このようにLiminal Spaceの不気味さのうち幾分かの割合は写真メディアそのものが一般的に持つ不気味さによるものであるとした上で、さらにLiminal Spaceに関して言えばインターネット・ミーム特有の再文脈化がミームを成長させた要因であると述べている。
ではこの再文脈化とは何か。まず、写真メディアには動画メディアのような時間軸の情報や文章メディアのような前後の文脈の情報がなく、被写体はフレームの中に時間的・空間的に凍結される。このように写真メディアそのものには含まれる情報自体が限られているため、写真は見た者による再文脈化に対して無防備なメディアであると銭清弘は主張する。
これは参照元のブログにあるわけではなく私による独自の例であるが、例えば写真が再文脈化に無防備であるというのは、フランスの写真家ロベール・ドアノーの作品「パリ市庁舎前のキス」にまつわるエピソードが表していると思う。この「パリ市庁舎前のキス」はパリの雑踏の中で男女がキスをする瞬間を写した一枚であり、ロベール・ドアノーの代表作として東京都写真美術館に収蔵されているあまりにも有名な写真である。この写真は80年代にポスターとして使用されると、愛の国フランスを象徴するような写真として高く評価された。しかし、実はこの「パリ市庁舎前のキス」は役者を使った演技だったことが後になって判明している。それにも関わらず、当時多くの鑑賞者がこの写真からパリでの甘くロマンチックな恋の渦中にいる男女を写した決定的瞬間という文脈を自分の中に作り上げ、その文脈の中で生まれた奇跡の一枚としてこの写真を評価したのは、おそらく写真メディアが被写体を脱文脈化し鑑賞者が再文脈化しやすいからであろう。
参照元のブログに戻ると、このような脱文脈化→再文脈化の流れがLiminal Spaceにもあるとしている。先述の通りLiminal Spaceの画像には水平垂直でないものが多くあるが、このような画像から事件現場の鑑識写真のような文脈を見た人が無意識に構築しているというのだ。実際、Liminal Spaceの発祥の一つである掲示板4chanでは「現実から抜け出してこのような場所に辿り着いてしまう」「閉じ込められてしまう」などといった架空の文脈が書き込まれていることからも、Liminal Spaceの不気味さに再文脈化が一役買っていることがわかる。
②人-不在空間という性質
続いては、より「無」の本質的な部分に通ずる話となる。先述の通りLiminal Spaceの画像は必ず無人であるが、同じように必ず「人がいるべき空間」でもある。単に「人や動物が写っていない画像」というだけであれば、例えば空を一面写した画像でも良いのだが、それはLiminal Spaceではない。Liminal Spaceとは、「人がいそうな場所に人がいない画像」なのである。例えば先ほど例に出したLiminal Spaceのうち何枚かはドアがある。また、本来そこを通行する人のためにあるはずの電気がついている。このような人のためにある物ものによって、画像を見た人は無意識にそこに人の気配を探し、しかし人はいないという挫折をするように仕向けられているのだ。このプロセスにより無人の不気味さが際立つということである。銭清弘はこのような画像を人のための潜在的な場所であることを想像的に意識させる画像として『「人-不在空間」の画像』と呼び、単に『「人がいない空間」の画像』と分けている。
あるはずのものが無いというuncomfortable
この、人の気配はするのに人がいないということがLiminal Spaceを不気味にしているという主張は、「無」のuncomfortableな本質とも繋がる。
本レポートの最初にある例の、会話の無い食卓を囲む家族はuncomfortableであるというのは、本来会話があるはずの場所にないからuncomfortableなのだ。これが、一人暮らしのワンルームアパートでコンビニ弁当を食べるというシーンの場合、同じく食卓だが会話がなくてもuncomfortableでない。というよりむしろ会話が有る方が不気味である。要するに、「潜在的に有ると想像させながら無い」というのが「無」が持つuncomfortableな本質の正体なのだ。会話の無い食卓を囲む家族の場合、その食卓の周りに家族みんなが笑顔で写っている家族写真が飾られていると、より会話が無いことのuncomfortableが際立つ。それは、家族円満の象徴のような写真によって潜在的に温かな会話が飛び交う幸せな食卓を想像し、しかし会話は「無」であるという挫折が発生するからである。
Realな、あまりにもRealな
ジョンレノンが書いた『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』のワンフレーズ “Nothing is real.” になぞらえて言うのであれば、「有る」はずのものが「無い」というのは現実をToo real.(リアルすぎ)にする。
私は幸い新型コロナウイルスの影響は味覚の方には出ていないが、味覚と嗅覚の両方を失った方の体験記によれば、無味無臭の固形物を噛み続けると気持ち悪さに吐きそうになるらしい[5]。おそらく、味覚も嗅覚も何も無いと、物を噛んで飲み込むという営みがリアルに感じられすぎるのだ。物を噛むときのグニュッ、ブチュッという食感の気持ち悪いリアルさを、味覚と嗅覚は曖昧につつみ隠して、楽しいものへと演出している。逆に今度は口の中の感覚(食感)と味覚がなくなって嗅覚だけになったら、例えば刺身を食べると死体の肉の一部で有るが故のリアルな生臭さに耐えられなくなるのかもしれない。
世の中の様々なもの(例えば食事の時たまに見える口内、皮膚のシワ、犬の唾液. . . )は、冷静に考えるとだいたい気持ち悪い。だから、この世に当然「有る」物たちはそれを曖昧にするモザイクのような役割をして、ポップに演出する。そして、それが突然「無」になったとき、そのあまりにもリアルな様態にuncomfortableを感じるのだ。
参考文献
[1] 平畑光一.“コロナ後遺症チートシート”.新型コロナ後遺症.https://www.longcovid.jp/cheat-sheet.html#11 (2023.8.4参照)
[2] 実用日本語表現辞典.“ミームの意味・解説”.Weblio.https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0 (2023.8.4参照)
[3] 複数のユーザーによる編集. “Liminal Spaces”. Know Your Meme. https://knowyourmeme.com/memes/cultures/liminal-spaces-images-with-elegiac-auras (2023.8.4参照)
[4] 銭 清弘.“Liminal Spaceのなにが不気味なのか”.obakeweb. https://obakeweb.hatenablog.com/entry/liminalspace (2023.8.4参照)
[5] 神谷慶.“2年たっても味覚と嗅覚が…記者が悩まされるコロナ後遺症 5類移行で「明けた」周囲とのギャップに困惑”.東京新聞Web. https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/2 (2023.8.4参照)