モラトリアムなき時代の大学生たち

この記事は「ReDesigner for Student クリエイター就活の手引きAdvent Calendar」の3日目です🎁
adventar.org/calendars/10308



 この文章は、熊代亨さんの記事『思春期モラトリアムは資本主義に吸収されました。(https://blog.tinect.jp/?p=81463)』に応答する形で書きました。引用は全て当該記事です。



1. 大学生の現在


2人に1人が奨学金を借りる社会における就活

紆余曲折あった僕の就職活動は、いまアシスタントをしているデザイン事務所にそのままデザイナーとして入る、という形にたどり着いて終わった。3年生の夏から冬にかけて、メーカー、広告代理店、コンサルティング会社、事業会社と、いろんな会社のデザイナー職のインターンや選考に参加した結果の選択である。道のりは長かったし、複雑に曲がりくねっていた。

よくいう就活の早期化というのは本当にその通りで、最初に就活に関するイベントに参加したのは大学2年生の3月だった。経団連ルールなんて聞いてあきれるほどの忙しなさである(いま振り返ると、別にこんなに早く始める必要はない)。

ただ実際には、就活は早期化しているというより長期化していると言った方が正しい。「早期」という言葉を意味通り使うなら早くに就活を始めた人は早くに終わってないと辻褄が合わないが、それはごく一部の話だ。そのごく一部の話がSNSでも現実でも耳に入りやすいので、まるで「早期化」している感じがするが、そもそも企業の一般での採用スケジュールは従来通り大学4年の3月1日からになっている場合も多く、インターン直結の早期採用ではそんなにたくさんの学生に内定を出さない。できるだけ第一志望に近い企業を目指そうとすると、早い時期から始めて最後まで就活を続ける必要がある。つまり「早く始まってこれまで通り終わる」という、「就活の長期化」が実際には起きている気がする。

日本学生支援機構「令和2年度 学生生活調査」を見ると、奨学金を借りている学生の割合は昼間部の大学で49.6%だ(https://www.jasso.go.jp/statistics/gakusei_chosa/__icsFiles/afieldfile/2022/03/16/data20_all.pdf)。国立大学の学費も、僕の父が大学に入学した昭和62年と比べて二倍近くになっている(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/005/gijiroku/attach/1386502.htm)。そんなに多額のお金を払って、あるいは半分の人は金を借りてまで大学で勉強しようと思っているのに、就活に持っていかれる時間はどんどん長くなっているというのだがら、時代が違えばヘルメットとゲバ棒でバリケードを組んでいてもおかしくないと思う。


若者の時間が資本として取引されるようになった

今の大学生たちの親は、おそらく1960年から80年の間に生まれた世代が多いだろう。この世代に生まれた人はちょうどバブル景気から就職氷河期への垂直降下を経験しており、僕の父はちょうどバブル景気の最後の最後に就活を、母は就職氷河期開幕と同時に就活を経験している。どんな企業にも入り放題と言われた時代と、望まぬ非正規労働者が大量発生した時代。

僕と同じような父を持つ大学生がいたら、きっと「大学生が一番楽しかった」みたいなことを小さい時から言われ続けているのではないだろうか。麻雀をし、合コンをし、ウイイレをする、みたいな「何もないけど時間だけあって、良かったな〜。」的な話をする親戚が一人くらい思いつく人も多いと思う。いわゆる「大学生は人生の夏休み」的なやつだ。

実際に大学生になってみて、どう思っただろうか。クソ忙しくはないだろうか。

僕の友達も人によれど、その日はバイトが、サークルが、説明会が、インターンが、など全然予定が合わなかったりする。

ここから先のことは冒頭に紹介した記事に書かれていることと重なるが、インターネットが資本主義経済のスピードを加速した2009年ごろから、「金はないけど時間はある大学生」も企業がお金を儲けるにあたって価値を持ち始めてしまった。

ふと考えると、きょう一日で僕たちに「無」の時間はあったか。Xに流れるポストを眺めること、あるいはTikTokに流れる大量のチーズを使ったクッキング動画を眺めることは、いずれも無料でできることだが、しかし一銭たりとも金を払わずともそのアプリに暇な時間を投じるだけで企業は利益をあげている。そして、そういったビジネスモデルはたいてい、僕たち若年層をターゲットにしている。

このビジネスモデルの発明が大学生に与えた影響は大きかった。かつては「金はないけど時間はある大学生」は、マーケットにおいて純粋に価値のない存在になれたのに、今では基本無料のスマホゲームが、登録無料のSNSが、閲覧無料の漫画アプリが、その暇な時間を奪い合う。たとえ一銭も払わなくとも、代わりに時間を払えば、個人がバズを生み出せる現代では立派なお客様になる。大学生の暇な時間が、市場経済のなかで価値を持ち始めた。


“若者時代の時間的余裕や手持ち時間がリソースとして認識されるようになり、開発されるようになり、取引の対象、資源としての利用の対象、換金の対象になってしまった。”

 

さて、人間は価値のあるものを手にすると、それを運用しはじめる。キャッシュがあるなら投資をしてみたり、土地があるならアパートを経営してみたり、自分が持っている「価値のあるもの」からいかに多くの果実を収穫するかを考える。頭のいい大学生たちは、自分たちが持つ暇な時間が価値を持ち始めたと気づいたとき、次に取引を使ってその価値を最大化することを考えた。

例えば恋愛であれば、従来の「長い時間を共に過ごしていくうちに惹かれあって……」みたいな馴れ初めの代用品として、友達次元をすっ飛ばして恋愛次元に突入するマッチングアプリが登場した。初めから恋愛感情を前提として交流を始めるマッチングアプリは、複数の人と同時にやり取りしてより良い人を見比べられる「コスパ」と、短時間で効率よくアリとナシを振り分けられる「タイパ」に優れたツールとして登場し、大学生が「暇な時間」から得られる享楽を最大化することに貢献した。しかし当然のことながらマッチングアプリの運営会社だって営利団体であり、その第一目的は学生含む人々の豊かな生活ではなく、儲けだ。すなわち、これまでは有り余る時間をたっぷり使い冷静な計算とはかけ離れたような感覚を共有するような大学生の恋愛が、「月額料金を払う代わりに効率よく恋愛の楽しさを享受できる」という資本主義上の契約に基づく取引に入れ替わる形で、マーケット化の流れに侵食された。

こういった可処分時間をターゲットとした商材はかつては金銭的に余裕のある比較的上の年代のものだった。取引を使った恋愛も、結婚相談所→出会い系サイト→マッチングアプリと年齢層と敷居がぐんぐん下がってきている。

まとめると、IT社会の発達を背景に生まれた基本無料のオンラインゲーム、あるいはSNSのターゲット広告などによって、金のない大学生がモラトリアムを過ごしていた暇な時間に価値が生まれた。それによって大学生の暇な時間をめぐって経済活動が繰り広げられ、暇な時間はまるで金銭のように取引に使えるようになった。


「若者時代の時間的余裕」なるものが資本主義の外部から資本主義の内部へ移動した、と言い換えてもいいかもしれない。
かつて、飲料水やお弁当がそうなったように。かつて、恋愛や就活がそうなったように。”


就活という取引

話を就活に戻す。

僕は就活の早期化・長期化もこの「大学生の暇な時間を、経済活動において取引の対象にする」というムーブメントに沿ったものだと思う。

日本における(特に短期の)インターンは、多くの場合取引だ。学生側は「学生として過ごせる数十時間」を差し出し、「有利に選考を進められる権利」を受け取る。企業側は「インターンを開催するための費用や人的リソース」を差し出し、「優秀な学生を見つけ青田買いする権利」を受け取る。

ここで想定される反論としては「インターンが学生にとっての学びの場にもなっているのでは」という意見だ。これに関しては、確かに一理あると思う。現に、額面上損な契約を自らの経験のために結ぶことが未来への投資として機能するという視点は、最低賃金を引き上げることに対する反論としても経済学において取り沙汰される。僕も、インターンで学んだことがゼロとは言わない。

しかし、現状としていったいどれほどの企業が大学が提供するアカデミズムに基づく教育ないしは研究に勝るような学びを提供するプログラムを組めているのかについては、冷静で中立的な議論が必要だ。その議論というのは、これから受ける選考のために「良い人間性」をアピールしなければならない就活生に参加者アンケートを書かせることではない。やはり就活におけるガクチカ的な発想に基づく取引というのが、多くの短期インターンの本質的な部分のように感じる。半分の人が金を借りて大学に通っているこの現状で、就活長期化を引き起こす企業が「学び」とはなんたるかを学生に対して説くのはいささか強引に思える。


大学生活のモチベーション

このように大学生の暇な時間は価値を持ち、今の大学生たちはそれをまるで金銭のように、器用に取引して運用し、持っている価値を最大化している。。

思うに多くの場合、金銭の取引・運用に対するモチベーションは「自分だけが得する快感」と「自分だけが損する恐怖」だ。だからパチンコは本当にアドレナリンが出るし、黒字を出している会社の株主の目は輝く。

これは単に僕の感想だが、大学生活へのモチベーションも「自分だけが得する快感」と「自分だけが損する恐怖」にならないか不安だ。

一日中ショート動画を見て過ごした日の夕方にカラスの鳴き声が聞こえてた時の病み方は、自分だけが損していることへの恐怖なんじゃないか。

やはりモラトリアムなんて許されるわけないと思う。


“資本主義はよりよく回転するようになり、さまざまなビジネスは、さぞ、色艶を増したことだろう。

そのかわり、若者の可処分時間はどんどん買い叩かれている。

かつての干鰯のように。あるいは南太平洋諸島のグアノのように。そして乱獲されている。”



2. 18歳からneighbyまで


大学一年生を振り返る

2021年3月、地元の名古屋から上京した。18歳の僕は今よりずっと身軽で、引越しは実家のノアで事足りた。

一年生のころを振り返ると、あまり良い思い出がない。「上京したからには何かを成し遂げたい、俺にはそれができるはずだ。」という未熟な万能感と、予想外につまらなく特に何も起こらないループものみたいな大学生活とのギャップを埋める方法は見つからず、6畳のアパートでテレビから垂れ流される年下のスケートボード選手が東京オリンピックで活躍したとかいうニュースをちら見しては、舌打ちして消していた。

アルバイト先だった学習塾を社長の宗教じみた説法に嫌気がさして突然辞めたため金もなく、最低な気分だった大学一年生だが、この時期にその後のあれこれに大きく影響する出来事を二つ経験する。

まず一つ目が「社会意識と社会構造」という授業。昨年度で都立大を退官した社会学者の宮台真司が開講していたこの授業は、サブカルチャーを軸に時代時代の若者のムーブメントを掘り下げる内容で、都立大にいくつかある旧都立大のバンカラな雰囲気を残している、昔から長いこと続く名物授業の一つだった。今になって思い返すと、ほぼ信者化した一部の生徒の空気感などを冷静に見られるが、当時の僕にとってこの授業は電撃だった。宮台の言葉で理性的な判断を超えて誰かに影響されることを「感染する」というが、実際に感染していたと思う。今でも、都立大に入って良かったことといえばこの授業が受けられたことと答えるかもしれない。

全12回の授業の中盤あたりで、若松孝二の『ゆけゆけ二度目の処女』『理由なき暴行』というピンク映画を皆で観る回がある(過激なシーンは省いている)。

『ゆけゆけ二度目の処女』の方は物語が屋上で展開される。どこまでも見渡せる、でも飛び降りて死ぬ以外に脱出方法のない「開放的な密室」である屋上というモチーフが「どこへでも行けそうなのに、どこにも行けない。」若者を表現する。昨年、東京都写真美術館の展覧会「風景論以後」で展示されたので見覚えがある人もいるかも知れない。

一方の『理由なき暴行』は、貧乏でモテない19歳浪人生の男3人が、新宿の底辺アパートで散々犯罪をして自滅してゆく、情けなく哀しい様が描かれる。そして最後に番外地(住所がない土地)である網走に逃避行するのだが、ここで網走番外地は当時の若者が夢見た「ここではないどこか/not here, else where. 」のメタファーとなる。

この二つの場面には、シンパシーがあった。「ここではないどこか」というのは、その後の大学生活におけるテーマの一つになった。

もう一つが「パープルーム予備校」という、相模原で活動しているアート・コレクティブ。昨年行われた国立西洋美術館の企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」に出展していたことを思い出す方も多いかもしれない。一年生の後期に、大学を辞めて美術系の専門学校や私塾に移ってやろうかと色々と調べていた時にたまたま見つけ、最初は本当の美大予備校だと思っていた。

もちろんメンバーの作品たちも大好きなのだが、それと同時に僕に刺さったのはこのアー写だった。

言いようのないノスタルジー、手の届かない憧れ、とにかく言葉で言い表せないような、胸にくるものがあった。パープルームは同じアパートの各部屋でメンバーが共同生活しており、「擬似家族」を称する。このときから「共同体」に対する憧れが生まれたと思う。二年生までは相模原に住んでいたので、パープルームギャラリーも近かった。

ちなみにパープルームの中でも、自分がパープルームを知るより前にいたという吉田十七歳さんの作品が特に美しいと思う。もう叶わないかもしれないが、いつか実物を見てみたい。

このなんだか暗い感じの大学一年生の間に考えていたことをまとめると、まず「ここではないどこか/not here, else where.」を目指すという目標。常に今いる場所ではないところ、大学ではない、教室ではない、所在地不明のユートピアを探す気持ちの芽生えが何より先にあった。そして「好きなものでつながる共同体」への憧れ。これは先の授業で宮台が言っていた「好きなものでつながる、損得外の関係にある友達を作れ。」という言葉にも、パープルーム的なノスタルジアへの憧れにも端を発する、僕の大学生活のテーマになった。これらのことは、就職活動や卒業後のことを決めるにあたってもブレない判断基準になった。


微熱展とハピネスの話

大学二年生が始まった4月ごろ、先のぐるぐると考えていたことの末に学外のギャラリーで作品を展示するグループ展を考え始めた。学科で数少ない休日に遊んだことのある友人だった西村に声をかけ、「俺はどうしても学外で展示をしたい、これが上手くいかなかったら本当に絶望するし学校を辞めてやる。」とすごんだ。西村は、おもしろそうだね頑張りましょう、とかなんとか言って、なぜか握手してくれた。そして、その頃カメラを買って家族の写真を撮っていた土屋、ピクセルアートを作っていた小野の2人にかなり唐突に声をかけて展示に誘い、9月に原宿のデザインフェスタギャラリーを予約した。

この展示をやって良かった理由は、恐ろしいほどの「コスパ」と「タイパ」の悪さだと思う。

まず、9月にたった2日間だけやる展示を4月から5ヶ月間かけて準備するという泣く子も黙るタイパの悪さ。そしてコスパに関しては、場所代やDMなどの印刷代などで10万円以上払っているのに200円のステッカーしか利益の出場所がないのでそもそも話にならない。深刻な「パ」の不足である。コンペに参加したりしているわけでもないので代わりに権威や名誉がもらえる可能性があるわけでもない。

でも、その期間に展示に関係のあることも関係のないことも4人でたくさんの話ができた。毎週木曜の昼にサイゼリアであれこれと企画会議をしていた時間は楽しかった。4人で遠足と称して他の美大の学生が行なっているグループ展を偵察しに行ったこともあった。この展示はもちろん作品を見てほしかった気持ちもあったが、それと同じくらい共同体に対する小さな実験でもあった。僕にとって、冒頭に挙げた大学生の時間が取引される時代へのささやかなカウンターだった。言葉にできる価値が無いことを一緒にやりたくなるということは、それを上回るような何かが自分と相手との間にあるということを間接的に証明する。これは、大学生の持つ時間が価値を持ってしまった現代において、味わいにくくなった感覚であるように思える。

展示の準備風景(西村に何かを説明しています)

展示の名前は、まだ大学生たちに活気があった80年代のなんとなく浮き足だって高揚しているような雰囲気の渋谷を表現した「微熱感」という言葉を宮台の本より引用して「微熱展」とした。

そして翌年の大学三年生には、微熱展を見に来てくれて展示をしてみたいと言ってくれた森と廣瀬の二人も加わり、同じ場所でもう一度グループ展をした。展示の名前は、学園闘争があった60年代頃の「今ある秩序より、もっと居心地のいい未来がどこかにある」というムードから「ハピネスの話」。ちょうどこの展示を準備していたころ夏季インターンに忙殺されていたので、今あるルールや秩序、権威ではないelse whereを探すという意味を込められた点で良い名前だったような気がする。

ハピネスの話の設営風景


neighbyのはじまり

そうしてハピネスの話が終わった直後の大学三年生10月に、ハピネスの話と同じ6人でneighby(https://www.neighby.jp/)ができた。展示のたび僕を中心とした6人で展示ビジュアルを作っていたので、それを今度はみんなで、クライアントワークとしてやってみたいという流れだった。それほど一大決心をしたような感じではなく、「また来年の展示の準備が始まるまで退屈だね」といった流れで特に迷いもなく始まったような気がする。

neighbyの構想は、僕が大学三年生の夏に参加したインターンでの経験が深く関係している。僕はデザイナー職として広告代理店、コンサル会社、事業会社の3社の夏季インターンに参加したが、どの会社もとにかく「デザインで変化を起こす」ことを求めていた。アウトプットよりアウトカムを重視する、そしてそれを言語化して伝えることがいかに大切とされているかは、想像はしていたが予想以上だった。「良い社会」や「本質的な価値」を主語に置いてデザインを説明することが、どれだけ評価されているのかを知った。

でも僕は、デザインは社会にインパクトを与えるためのものでは無いし、与えることはできないと思っている。デザインに、表現であること以上の力や可能性はない。まず平和で健全な社会があって、それでいて初めてデザイナーを含む文化芸術活動の担い手は仕事ができる。だから、デザインはいつも社会の後を追っている。

デザインはもっと小規模に、内向的な動機で行うべきだという思いを込めて、neighbor(隣人)という単語に「〜のそばに」という意味の前置詞であるbyをつけて、自分たちをneighbyと名付けた。そして、「前衛:新しい視覚表現を研究する集団として、いつも市場の前衛を張る」「非言語:どれだけ論理的に正しかったとしても、最後は視覚表現として面白いかを考える」「感じ良さ:作品を望む人の気持ちをしっかりと汲んで取り組む姿勢」という3つの価値観を共有する集団としてはじまった。

今年のReDesigner for Studentブランドポスターの制作中に貼り合わせを見ているところ。画面には大量のイチゴが……。

これからのneighbyに関しては、まずメンバーが増えることはない。neighbyは6人で、できるだけ孤立している状態で運営したい。大きな同業者組合やユニオンの中で大立ち回りをするのではなく、どこの界隈にも属さない形で6人が孤立していることが肝要だ。そうすると、次第に6人の中で良いと思うグラフィックと、世の中で良いと思われているグラフィックがずれてきて、感覚が狂ってくる。この狂いの中に新しい表現が生まれるきっかけがあると思う。そういった意味では、トレンドに対するリサーチ・ベースド・デザインやリファレンスを上げながら制作を進めるプロセスも「感じ良さ」のための限定的な範囲に留めておく必要があると思う。

neighbyはイデオロギーを持った運動体であり続けたい(今っぽく言うと「思想が強い」という表現が近いかもしれない)。そうでないと、デザインの領域がこれほどまで縮小した現代において、自分たちは何でも屋さんになってしまう。

それから、展示の活動も続けていきたい。今年からneighby annualを名乗り始めたので、今後少なくとも年に一回は展示をすることになる。 neighbyはもともとグループ展から始まった運動体であるし、前衛・非言語・感じ良さを自分たちがきちんと体現できているかを年に一度再確認するタイミングは必要だ。


今年の展示「neighby annual 2024:デザインする共同体」の様子。会期はこの記事の公開日(12月3日)まで。

上手く言えないが、僕は最近のデザイン学生が陥りがちな穴の一つに「僕たちZ世代は、」的な語り口で制作をしてしまうことがあるような気がする。自分自身の視点を、いくつかの統計を添えるだけで自分を含む大多数に置き換えるようなレトリックを乱用するのは良くない。ちゃんと「僕/私はこれが良いと思う。」というように一人称で語れる活動を続けるという意味でも、展示は重要な役割を果たすと思う。


モラトリアムなき時代の大学生たち

この現代において、大学生が幸せになるにはどうしたら良いかを考え続けた4年間だった。まだ答えは見つからないが、そのヒントくらいは見つかった気がする。

「承認欲求」という言葉があるが、僕は「カテゴリーによる承認」と「経験による承認」の二つがあると思う。「カテゴリーによる承認」というのは、言い換えるなら言葉にできることだ。学歴や外見、居住地、成績、産まれた家の裕福さなど、具体的な言葉や数字にできるものを指す。

高校までは多かれ少なかれ、自分が収まるカテゴリーをめぐる競争の側面があるように思う。僕も、恥ずかしながらこの「カテゴリーによる承認」に熱中したタイプだった。受験生のころ周りがカリカリ勉強している中で自分だけデッサンの練習をしていたり、あるいはクラスで数人しかいなかった東京の大学を目指している一人だったり、周りが絶対に知らないようなアーティストやサブカルチャーを知っていたり、そういったことに未熟なアイデンティティを見出していた部分は否めない。

しかし、「カテゴリーによる承認」には代替可能だという欠点がある。大学に進学したら、自分と同じカテゴリーで自分より勝っている人がたくさん居てびっくりした。学歴が良い人も、あるいは華々しいデザインの受賞歴を持つ人も、聞くだけでおののくようなエリート内定先をいくつも持っている人も、世の中には無数にいる。無数にいるから、自分があるカテゴリーでそれなりの承認を得られるような実績を残しても唯一無二にはなれない。この辺りに、大学生の憂鬱を理解する手がかりがある気がする。

その代わりとなる「経験による承認」とは何かを探ったのが僕にとっての学生生活だったし、微熱展からneighbyまでの一連だった。まだ上手に言葉にできない部分もあるのだが、最近この「経験による承認」における「経験」とは、「自分の迷惑を受け入れてもらった経験」なのかもしれないと思いはじめた。

生きとし生けるものはみな根本的に迷惑だし、未熟者な学生ならなおさらだ。バイトをすればミスもあることだろう。

たとえ普通に学生生活を送っているだけでも、時々自分一人で乗り越えるには厳しいような心の折れ方をする時もある。そんなとき誰かに話を聞いてもらいたくなったりするが、自分の悩みを聞いてもらうなんて迷惑なことだ。それでもなお話を聞いてもらえたことは、「経験による承認」の一例だと思う。そうやって自分の弱みを見せられると、逆に相手も弱みを素直に打ち明けてくるかもしれない。僕たちはそうやって相互に承認をして生きてゆく必要がある。「他人に迷惑をかけるな。」ということを絶対的な基準にするのは良くない。他人にいっさい迷惑をかけないようにしようと思ったら、僕は死んでおくのが王道だと思う。

高校生までは家族という、利益追求のためでない、無償の愛をささげてくれる共同体がその「迷惑を受け入れて承認してくれる役目」を担ってくれたが、親元から自立するにつれてその承認を自分でやりくりする必要性が出てくる。

大学生が持つ時間に価値が生まれ、それを就活におけるガクチカ的な発想で取引する現代においては、誰かの「迷惑」による時間の浪費を避けることにシビアになったと思う。それでも、かつて切羽詰まった表情で「グループ展をどうしてもしたい」と迫った僕の手を握ってくれた誰かのようでありたい。きっとそこに、モラトリアムなき時代に大学生になった僕たちが楽しく生活をするためのヒントがあると思う。



3. 就活について


最後に、デザイナー新卒就活を行なったものとしてデザイナーを目指す学生たちの今後が少しでも良くなるようメッセージを残しておく。


採用企業の方へ

学生が短期インターンで制作した成果物が持つ著作者人格権について、もう少しデザイナー採用に携わる人事の方が勉強しておく必要があるように思います。

自分が参加したインターンのうちほとんどが、参加前に締結する秘密保持契約の適用範囲にインターンでの成果物を含めていましたが、これは不均衡ではないでしょうか。著作者人格権は「公表権」「同一性保持権」「氏名表示権」の3つからなるものですが、これらは譲渡が可能な著作権とは違い日本では作者が死亡しない限り作者側に帰属しています。しかし秘密保持契約をインターンでの成果物に適用してしまうと、学生は著作者人格権を事実上棄権するように迫られることになります。

もし企業側に成果物に関する権利の一切を預けるよう迫るならば、それに見合った対価を学生側に支払うべきです。多くのクライアントワークでは、制作後の権利の在処に関する視点が見積額に反映します。しかし、短期インターンで個別に業務委託の契約を結ぶことは今の日本の就職活動における状況を鑑みると現実的ではないので、せめて成果物について、その後の就職活動で使うポートフォリオへの掲載や、作品を登録してスカウトをもらう形式の就活サイトへの登録は認めるべきではないでしょうか。それが不可能となるのであれば、むやみに秘密情報を学生に開示するべきではないと思います。そして、これら成果物の取り扱いに関してはインターン募集の際の要項に明記すべきです。

この辺りは分かりやすく解説している本やウェブサイトも多くあるので、デザイナー採用に携わる方のリテラシーがもう少し高くなることを期待しています。


就活サイトなど新卒就活産業の方へ

学生側が持っている意見を、きちんと吸い上げる仕組みを整備することが急務です。

ここ数年のデザイナー新卒採用は、採用企業側も就活サイトなどの就活産業側もパーパス・ドリブンで進めることを意識しはじめているように思いますが、その弊害も出てきていると感じます。「企業側」「就活産業側」の両者が採用活動をめぐって「こういう目的を達成したい」的な主張を強めていって、採用権限を握られている学生側の意見主張が相対的に見過ごされる傾向に走っていないでしょうか。

経団連が倫理憲章で就活解禁時期を明示することをやめ、その押し付け先の政府も及び腰な今、就活早期化を進める企業のブレーキ役が不在なように思います。就活サイトなどプラットフォーマーにはもっと学生側の現状への理解も深めて、双方に対してより中立的な立場で市場を整備する責任があるのではないでしょうか。

インターンの成功を喜ぶ人事の方の横で、疲れ果てた表情の学生を見たことが何回かありました。「学びを提供」系の品の良いパーパスの域は越え始めているように感じます。


大学関係者の方へ

学術研究の時間をしっかり確保するために、もっと積極的な意見表明をするべきです。

理系分野で多くの業績を上げているとある大学の研究室(東京都立大ではありません)は、教授の命令で所属学生に就活やインターンへの参加をある時期まで禁じています。おそらくこの事実が公になると処分されるのは教授の側ですが、責められるべきは教授だけではないはずです。これは、現在の就職活動のシステムと日本が学術研究での競争力を確保することとの両立が不可能であることを示していると言えないでしょうか。

学生への就職支援や自校の就職実績への配慮をするだけでなく、もっと大学側が連帯して、日本の学術研究の持続可能な発展を見据えた立場から就活に関する議論に参加するべきです。


これから就活がはじまる方へ

就活に限らず何事も、悪いことばかりではないです。

就活中はしばらく悪いことが続いたりもしますが、そこでへそを曲げたり卑屈になったりしてしまうかどうかに分かれ道があるように思います。

傷つく時には傷つきつつ、そしてできれば、自分に心のゆとりがある時にまわりに傷ついている人を見かけたら、してあげられることがないか考えたりしましょう。そうやって日々を過ごす以外に無い気がします。



以上です。