推しは方角、萌えは包摂
鼎談/春野秀昌(@Alice_in_Archi)
望月:『萌えと推しの違い』って言われたら何だと思う? もしくは、すごく「萌え」を象徴しているものとか、「推し」を象徴している行為って何かって言われたら、何だと思う?
春野:「萌え」は、対象に対して自分の中に湧く感情だよね。「推し」っていうのは、萌えが感想みたいなものだったのに対して、それにちょっと力が加わってるというか、「推し」のために何かをする、その実態ある行為というのが“推す”という言葉の意味になっている。
望:受動か能動かってことだよね。受動が「萌え」で、能動が「推し」。もしくは、「萌え」っていうのは包摂とも言える。「推し」が蛙化との危うい緊張関係の中にある行為だとするならば、「萌え」はその次元にはいない。つまり、本来期待された振る舞いと矛盾する行為を行った場合に幻滅し得るのが「推し」だとしたら、その矛盾にもときめくのが「萌え」なんじゃないかっていう。萌えの方が全てを包み込むし、解釈不一致にすら愛を生み出しかねないのが「萌え」なのではっていうのもある。
春:それを聞くと、「推し」って、やっぱり能動的にやってるのもあって、かなり個々人のエゴが働いてるなと思うよね。解釈が重要視されて、「推し」のことを勝手に解釈して、例えば漫画の作者が考えていた通りに描いたものに解釈不一致だって言って、制作者側が追い込まれることが多分、全然ありえる話。何かしらのコンテンツに触れることが増えてきて、それを友達に勧めるみたいな概念の先に「推し」ってあると思うんだけど、この「推し」が近年、より手軽にできるようになりすぎて、コンテンツの消費が加速しているし、かえってみんなを不自由にしてる感じはある。
望:たしかに。「推し」って言葉はあんまり自由なイメージではない。
春:「萌え」っていうのは、結構個人的解釈を許容するところがある。「推し」は『この子が推しなんだよね』って言われたときに、『そうかなー』って言いづらい。
望:あとは単純に言葉の使い方も変わって、自分たちの世代だと高校生の頃とか思い出すと「推し」は特に女子は結構リアルの人にも使うよね。『クラスのあの人が推し』みたいな。でも「萌え」ってあんまりその印象なくない? リアルの人に「萌え」って。なんかギリギリ気持ち悪いよな、リアルの人に言ったら。
春:そうだね。だから、より「推し」の暴力性じゃないけど、本来は暴力的な気がするんだよ。人に勝手に愛情や幻想を抱くっていう。でも、それがマイルドになったのが「推し」とも言えるよね。
望:あと、「推し」には方角がある。方向性がある。推し活も、推しの布教も、明らかに向かう先や念頭に置く層みたいなものがある。一方で「萌え」は方向性というより、A⊂Bのベン図みたいな、丸の中に丸がある、みたいなフュージョンを行うイメージ。ある特定の何かを想起するというよりは、萌世界そのものに包まれるというか。
望:例えばアキバ系アイドルのいわゆるヲタ芸の中にイエローパンチョスっていう技があって、これは明確に「萌え」だと思う。元々ロマンスっていう技があるんだけど、それを、手をグーに握ってやるのがイエローパンチョス。
春:なんでグーに?
望:理由があって、昔とあるアイドルのライブ中に一瞬、黄色いパンツが見えた瞬間があって、そしたら最前列のオタクが思わずガッツポーズをした。その直後にちょうどロマンスを踊るパートが来たから、ガッツポーズのままロマンスを踊っちゃった。
春:それでか。
望:そう。ガッツポーズのまま全部踊ったから、それがきっかけで、手をグーに握ったままロマンスを踊ることにイエローパンチョスって名前が付いた。ただ現場を目撃しているわけではないし、この説は後追いで知っているから、おそらく起源には諸説あると思う。
望:これは「萌え」的な行為なんじゃないか。「推し」文化の中で行う愛情表現は、可読性の高いものが多い。例えばVTuberにおける切り抜き師だったり、“ぬい”だったり、他者から見てはっきりとわかるもの、あるいは推す対象の魅力を“今ココ”の次元に再現しようとしている共通項がある。一方で「萌え」文化の中で行う愛情表現は、一概には言えないにしても「推し」文化と比べた時に可読性は低い傾向にあると思う。
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望:Wikipediaの「萌え」の項を見ると、ライトノベル作家の谷川流は自著における登場人物の台詞として、対象に性的興奮を覚えて自慰行為に耽った直後に、まだ対象への愛情が持続するか否かで「萌え」と「エロ」は区別できると発言させている。って書いてある。ちょっと面白い視点だなと思って。
春:なるほどね。
望:よくある「3回抜いた後にキスできるか」みたいな、プラトニックなラヴを「萌え」という言葉に託しているけれど、必ずしもそうではないんじゃないか。
春:3回か……。
望:で、それに対して推しだったらどうなるんだろうって考えると、推しの方がより性的対象から遠い位置にある気がする。
春:ここで思うのは、推しって、かなり偶像崇拝的というか、宗教っぽい概念なんだよね。
望:「推しが尊い」の発想。
春:あいちトリエンナーレ2019のテーマが『情の時代』だったけれど、「推し」の方が情の時代には合ってるんだろうなと思う。なんか……すごい「推し」を大きく捉えてしまうかもしれないけど、「推し」って、すごく宗教的で、信仰的で、一方で「萌え」は、もっと慣習というか、文化的というか。宗教も文化なんだけど。
春:別に萌えるっていう現象は、萌えるべき行動をしている人以外でも生じるんだよ。不意に萌えたりとか。だからやっぱり、慣習的なものというか、生きる上で当たり前のことというか。一方で推すっていう現象は、商業的な場に限って言えば推されようとして行動している人に生じる。宗教的なものって、関係者の中で覚悟がある。そこは、推しと萌えの決定的な違いな気がするな。
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望:たとえば90年代とか80年代の人たちに、「推し」って言葉自体は今と同じようには無かったけど、「推し」という概念を伝えたら通じると思うんだよ。光GENJIが好きな人に、「こういう自分の好きなメンバーのことを『推し』って言うんです」って説明したら、伝わりそう。
春:うん、伝わる気がする。
望:でも、「萌え」とか「エモい」は同じ時代を共有している人同士じゃないとニュアンスを伝え切れない。前提条件が必要な感覚に名付けた言葉。
春:ただ、逆に、同時代の中での共通認識はずっとあるかもね。たとえば江戸時代には「萌え」って言葉はなかったけど、「これいいよな」っていう共通認識みたいなものは、世代ごとにあったかもしれない。
望:あるかも。
春:瞬間的にチラッと見える着物の何か、みたいな。言葉にはされてないけど、そういう感覚は存在してたかもしれない。
望:うん、多分別の言葉で表現されてたんだろうね。「萌え」ではない何かで。春画とか漁ったらどこかに描いてあるのかもしれない。
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望:ここ数年のトレンドで、サブカル的にも使われているカタカナ4文字言葉が衰退していっていると思うんだよね。ヤンデレ、ツンデレ、メンヘラとか。『ハーレム天国だと思ったらヤンデレ地獄だった。』の発売がもう11年前。で、昔、メンヘラって言われてた人たちが、今は地雷系とかに置き換わってるじゃん。ヤンデレとかメンヘラとか……そういう片仮名四文字の言葉が、系とか界隈っていう集合体を指すように変わってきた。単数で一人を指していた言葉が、複数の集団を指すようになった。
春:うん、確かに。だから、「萌え」は単数で、「推し」は複数って感じがするんだよね。内在してた個人の感情が、集団化していった結果みたいな。
望:なくならないでほしいけどな、萌え。
春:いや、別に萌え自体が消えるわけじゃないと思う。ただ、萌えを盛り上げる場がなくなったり、自然発生するものになっていくかもね。あるいはまた別の言葉になって、萌えという概念が更新されていく気がする。
みんなデフレの夢でした?
いま思い返すと、当時クールジャパンと呼ばれていたものはデフレ経済というマッチに火をすって皆で見ていた幻想だったような気がします。マックもファミレスも当然のように24時間営業で、数百円払えば明るくて快適な夜が手に入る。あの夜景の中で作られた文化をクールジャパンと呼んでいたのかもしれません。身分のある人は当然、物価に合わせて賃金も上がって行きますが、いつの世も「クールジャパン」の作り手たちは中央経済の潤いをすぐに自分の資産としてもらえる立場にはいなかったように思います。6畳一間のアパートから生み出される文字通りの「おたく」カルチャーは生活と制作との間にある関係性が緊密ですから、例えば米の値段が上がったとか、そういったニュースが制作活動のすぐ後ろまで来ます。おそらく、インターネット上での嫌儲主義の土壌がカウンターカルチャーとして機能する時代はもう終わったのでしょう。
萌えも推しも、かつては東京でいえば秋葉原が台風の目だったように思います。しかしポップアップやコラボカフェ、あるいはTOWER RECORDSやHMVの雰囲気を見ても、体感として推し文化の方が、秋葉原から渋谷や池袋へのシフトに成功したような気がします。(東京に限らず、例えば名古屋でも推し文化は大須から矢場町へと久屋大通を三の丸方面に登っていっている、あるいは名駅へ逸れた気がします。現に栄PARCOにシャチポップができたのは2015年のことでした。)
渋谷も池袋も、2025年のいま再開発の中心地となっている街です。消費者経済に歓迎され、クリーンで理想的な都市の倫理にも馴染む、公共的な愛。そう考えると、かつてクールジャパンと呼ばれたものの中で、少なくとも「推し」の方が牛丼並盛460円の世界線に適応できていることは間違いなさそうです。