250710 返信 @_baku89

こちらのスレッドへの返信。特に客観的なデータや指標は含まれず、お気持ちベースの感想文です。


前提 

 

望月さんのおっしゃる「界隈」とは、例えばどのようなものを想定されているのでしょうか。そして、そこからどのように「越境」できて、その結果どんなものを得られたのでしょうか。こういったディスカッションは、できるだけ具体に根ざしていったほうが良いように感じています。

 

「たしかに。」と思ったので、以下の返信における各単語の定義から始めてみることにします。

  • 「界隈」とは
    • 「概ね同じような文化を好む傾向にある人々」「InstagramのFFがめちゃくちゃたくさん被っている」「いつメン」など言いようは色々あるが、ディスカッションを進めるには少々ニュアンス頼り
    • 「心理的な安心感を担保された人付き合い」「自己ホメオスタシスの深刻な危機に瀕する不安なくコ・クリエーションを行える仲間の群」みたいな言い方も一部的を得てはいるが、同じ界隈の人との制作でも24時間リラックスできるわけではないだろう
      • ひとまず「共通の知り合いがたくさんいる間柄で、かつ同じようなものが好きな人たち」のことを「界隈」とします
  • 「越境」とは
    • 制作物が、制作者・関係者がいる「界隈」の外にいる人の目に触れたことを指します
      • その真逆が「東京TDC展のメインビジュアルが翌年の東京TDCに入選する」みたいな、論理的に筋は通っているけど、なんとなく「ん?」となる現象です
  • 「その結果どんなものを得られた」のか
    • 金、ですがここは後述します

 

気持ちの面

 

ただ、もっと気持ちの面で、あの書き方が彼ら彼女らにどう刺さっているのか、作り手としてどう気持ちを乗せているのか、それとも割り切っているのか、気になって仕方がないのです。

 

あくまで僕の体感ですが、過半数以上は「マジ」で書いていると思います。少なくとも、もうお一方へのリプにあったように 作り手として忸怩たる思いであのポエム未満のトークン列をスクロールに合わせてリッチにアニメーションさせている ような人を僕は知らないし、想像もできません。僕も自分が主宰するコレクティブに「視覚表現の可能性を研究する場として、作品を望む人の気持ちをくみとりグラフィックデザインの前衛を張ることを目指します。」というセンテンスを書きWebサイトにも大きく載せていますが、これも僕もメンバーも大マジです。

そして僕の観測域の中では、なんとなくWebサイトに載っているコピーと実際にお会いした際の会社の雰囲気には相関関係があるように感じますし、あるいは載っているコピーのような会社にしようと取り組んでいる感じもします。


ああいった企業サイトのコピーライティングは、意味伝達において機能をもったものではなく、広告やWeb業界内で相互参照を繰り返すうちに、そうしたトンマナとして形骸化したものに過ぎないのではないでしょうか。

 

これは「ああいった企業サイトのコピーライティング」が指すもののうち極一部の話で、形骸化した義務プレイではないと考えています。

運動会の選手宣誓、あるいは市民センターの体育館にバスケ部が掲げる「必勝!」みたいに、意味を追うより風情を楽しんでいるパターンもたしかにある気がしますが、それも形骸化とまではいかないんじゃないかと。


自然と不自然

僕の個人的な好き↔︎嫌いの話もしておくと、僕はデザイナーとして「自然」なものが好きで「不自然」なものが嫌いです。ここでいう「不自然」とは、「セルフブランディング」と読み替えても概ね意味は通ります。

で、企業サイトに(橋本さんが空疎だと感じているであろうタイプの)コピーを載せる事は僕の目にはわりと「自然」に映っています。通っていた小学校の黒板の上には「あかるく・なかよく・元気よく」と書いた紙が貼ってあったし、僕の父は「うるおいと感動のあるくらしの想像」とかの理念を掲げている会社でガスを売っています。組織人のマインドセットとして自然な形を、そういうものと捉えています。

逆に「不自然」だと思うのは、やたらと言葉を扱うことを拒むタイプのデザイナーです。彼らにとって頭の良さそうなモノやコト(敬語でのコミュニケーション、ロジカルなプレゼン、お金の計算……)ができないことを誇らしげに本やインタビューで発表している場面を見ると、何とも寒い気持ちになります。この手の寡黙/不器用/ミステリアスなクリエイター像は、たしかに「あかるく・なかよく・元気よく」よりSNS映えしますが。一部美大生のセンター試験マジで点数低かった自慢(たまにここに「でも国語だけは良かった」という追加情報が入ります)とも似た何かを感じます。


いわゆる「クリエイティブ業界」の言葉に対する扱いの雑さ

これは全く同意です。僕が今年の3月に発表した卒業制作のテキスト デザイン・コレクティブの時代 も、デザイン・コレクティブを主宰する立場として、いわゆる「クリエイティブ業界」の人々が何も自己言及や自己批判をせずに流行り言葉としてコレクティブという言葉を消費することへの警戒感があってのことでした。

リニューアルされた雑誌「広告」について、僕はウェブサイトの世界観がロバートの「イイダ」だとは思いませんでしたが、一方で世界が戦禍の中にあるこの時代に「領域侵犯合法化」を掲げる言語感覚の悪さには閉口しました。

「成果と事実に基づく平熱で具体的な記述を徹底する」スタイルは僕は好きで誠実だと思いますし、そのスタイルが直接「界隈」に結びつくわけではないと思います。

ただ一方で、特に僕がグラフィックデザイナーを志す大学生だった1、2年前に「これもう20代でグラフィックデザイナーとしてJAGDA界隈に入るにはターンテーブル回せるようになるかオルタナティブスペース運営するかしかなくね?」という閉塞感を感じていたときに、そうではない道を見せてくれたのは、主に橋本さんのいうところの「シャバいコピーで言語過多」なスタンスの人たちでした。それが「越境」の意味するところです。

そして冒頭に挙げた「その結果どんなものを得られたか」についてですが、越境の結果得られるものは金だと思います。大学図書館でひらいた10年ほど前のJAGDA年鑑の冒頭に、「グラフィックデザイナーは儲けられてないなぁと思った」という会長のぼやきが載っていて、夢も希望もねえなと思ったことを覚えています。そんな中で、ビジネスとしての色艶(デザインという文化が正当に発展するには非常に重要な点だと思います)を見せてくれたのも、やっぱり橋本さんのいうところの「シャバいコピーで言語過多」なスタンスの人たちでした。

別に、「シャバいコピーで言語過多」なスタンスであれば即ち越境している、ステートメントを書かない人は即ち界隈の中でスヤスヤしている、みたいな方程式を語っているわけではありません。ただ僕の短い観察日記として、そういう傾向があると思います、という話です。


最後に

どこかでお話しできたら僕も嬉しい限りです。

僕も高校時代に、放送部でテレビドキュメンタリーを作ったことがきっかけでデザイナーを目指したので……。