World Wide Webの力とポートフォリオサイト

共宰しているデザイン・コレクティブのneighbyのウェブサイトが丸ごと新しくなりました(https://www.neighby.jp)。作っているときに考えていたことをまとめます。


トレンド:包摂に次ぐ包摂

先日、XのiOSアプリにアップデートがありました。Xのポストに含まれるURLを踏むとアプリ内ブラウザが立ち上がり、その中でページが開かれるのですが、このアップデートでは元のポストが折りたたまれて画面の下部に表示されます。ポストの中で取り上げたページを読みながら、いいねやリポストができるというわけです。

Instagramのリンクを開いてもInstagramのアプリには飛ばず、YouTubeのリンクを開いてもYouTubeアプリに飛びません。あくまで「元ポストに内包される形で」 Xの中で遷移先のページが見られます。

ちょうどこのアップデートの翌日、OpenAIがChatGPT Atlasを発表しました。まるでchatGPTというメガネのレンズを通してソースコードの描画を見ているかのようなウェブブラウザで、Amazonで一番安い商品を探してきてもらったり、あるいは代理でXにポストをしてもらったりもできます。

前日にXがXのポストに含まれるURLの参照を「Xの中で行われていること」に包み込もうとしたらば、なんと翌日にOpenAIがそのXのポスト自体も「ChatGPTの中で行われている(かもしれない)こと」に包み込んでしまったのです。恐るべきスピード感。

このような現象を、僕は過剰包摂社会にちなんで「包摂に次ぐ包摂」と呼んでいます。

過剰包摂社会とは、例えば昔は金持ちは金持ちっぽい服を着て、貧乏は貧乏そうな飯を食っていたのに、今では年収2,000万でも300万でもiPhoneを持ってヒートテックを着てスタバを飲んでいるような社会のことをいいます。その結果として、自分と同じような境遇に置かれている人同士がお互いを認知し合って連帯することが難しくなりました。巨大な資本やプラットフォーム、サプライチェーンなどに生活の全てが「過剰に」包摂され、みんな同じに見えるのに自分の仲間だと思える人はぱっと見では一人も見つからないような社会を憂慮する考え方です。

インターネットでも同じことが起きているような気がします。UXデザインにはどうしても、UXが劣っている方に嫌悪感を持たせてしまう側面があり、結果として言論はXに、jpeg画像はInstagramに、mp4はYouTubeに……と、過剰包摂されていったのではないでしょうか。それらのデータが、洗練されていないけれどむき出しのエネルギーを感じるような、セルフメイドに構築されたウェブページにあったのなら、その中にあるニュアンスを読み取りあって文脈を紡げたかもしれないのに、と思います。けれどプラットフォーム資本主義の包摂が加速した今では、その余地はもはや丸いアイコンと四角いヘッダーにしか残されていないのかもしれません。そのアイコンやヘッダーですら、プラットフォームに推奨の解像度とアスペクト比を決められてしまう始末。


World Wide Webの力

2002年生まれの僕が最初にインターネットに接続したデバイスは、ニンテンドーDSiでした。それが9歳の頃なので、2011年です。東日本大震災のこともあり、黎明期のTwitterやLINEが国内に普及し始めた年でもありました。

つまり、僕はWorld Wide Webそのものの可能性を、当事者として感じ取れていません。World Wide Webの力を存分に受け取るには少々心許ないニンテンドーDSiというデバイスを手に入れた時ですら、世界で初めてのウェブページが公開されてから実に21年の月日が経っていました。

そんな折、JAGDAが運営しているThe Graphic Design Reviewにウェブ文化に関する2本の記事が公開されました。

ワールドワイドウェブのこと(永原康史)

むき出しの力|HTML Energyの精神について(米山菜津子)

いずれも好きな記事です。


新しいneighbyのポートフォリオサイト

改めて自己紹介すると、neighbyとは6人で共宰しているデザイン・コレクティブです。東京都立大学インダストリアルアート学科の同期で結成し、現在は僕を含め2人の会社員と、4人の大学院生という構成員になっています(結成当初から増えても減ってもいません)。

多面的な活動をポートフォリオサイトで見せようとして、着目したのは「参照」という行為です。

新しいneighbyサイトを作る上でリファレンスとして影響を受けたサイトは色々とあるのですが、とりわけ大きかったのはNathalie Du Pasquierの個人サイトだと思います。

https://www.nathaliedupasquier.com/home2.html

多くを語ることなく淡々とウェブサイトの構成とデザインを自らのパーソナリティと一致させているように感じ、大きな刺激になりました。

新しいneighbyサイトは、「参照」という行為のシンボライズとしてサイトマップを取り上げ、この古典的モティーフをウェブデザインとしてのタイポグラフィとしても美しく見せることを命題として掲げて制作しました。僕が普段仕事をしているウェブ界隈では、サイトマップはいわゆる「前段」の整理作業に含まれることが多いのですが、むしろ主役を張るにふさわしいのではないかという試みです。これは、僕が個人的に階層付けが認識しづらいウェブサイトを理解するのが苦手で、特に第一階層から第二階層を飛ばして第三階層に飛んでしまうような動線が貼られていると混乱してしまうという個人的な理由もあります。

新しいneighbyサイトでは、サイトマップの端ではneighby.jpの外にあるサイトにも参照できるようになっています。ありがたいことにクライアント様がneighbyの制作物を紹介してくださることもあり、そこにも参照できるようにしておきたいという考えです。そのほか、関連する制作記録のnoteやXのポストなどにも参照先は伸びています。

とはいえWorld Wide Webにおける「参照」で自分たちの活動のポートフォリオを構築する、という方法論には他にも色々とできることがある気もしており、増改築を繰り返していくかもしれません。

制作物をみんなに見てもらいたければ、独自ドメインのサイトに載せるよりInstagramに貼った方が利益は大きいのですが、その「グラフィック・デザイナーとして行った制作が、プラットフォームをさらに尊大なものにする行為に回収されてゆき、プラットフォームのための労働となる」という構図は二重の意味で面白くなく、このようなサイトを用意しています。


StudioとWeb

ここまで散々原始的なウェブサイトが持っている力を語っておいて拍子抜けかもしれませんが、新しいneighbyサイトはノーコードツールのStudioで作ってあります。僕は一文字もコードを書いていません。

このことには若干の後ろめたさや、今からウェブサイトの実装知識を学ぶことへの気後れという忸怩たる思いもあります。ただ一方で、Studioはセルフメイドで即席なウェブページのカルチャーと、ある程度「それっぽく」整えて類型化し得るように仕上げておいた方が得をしがちという現実的な問題の、中間の妥協点として秀逸なようにも思っています。

とはいえ、これは中庸に訴える論証なのかもしれません。


今後のこと

今後も、デジタル・ガーデン的なサイトとまではいかなくとも、特にIssueの項目は充実していくので、たまに覗きにきてくださると嬉しいです。リンクに関しては、山形浩生さんよろしくリンクするなら黙ってやれ!方式を採用しているので、ぜひリンクも貼ってください。