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インゲボルグ・バッハマン『ウンディーネが行く』 における「おいで。」の意味を考察する

(授業内課題として提出したレポートに加筆修正を加えたものです。) 本レポートについて 本レポートでは、インゲボルグ・バッハマンの『三十歳』(松永美穂訳 岩波文庫)に所収されている短編小説『ウンディーネが行く』について、まず作中内で「ハンス」と呼ばれる存在がどのようなものであるのかについて考察し、それを踏まえて結末部分の「おいで。」が表すものについて考えを論じる。引用はすべて『三十歳』(松永美穂訳 岩波文庫)である。 ハンスとは何か まず「ウンディーネが行く」というタイトルながら本文中でむしろウンディーネより詳細かつ熱っぽく語られる「ハンス」という存在について、これが指し示すものが何なのかを本文を引用しつつ検討する。 「個人」と「一般」との間で揺れる不安定な名詞 作中での「ハンス」について考えるとき、最初の難関は「ハンス」という単語がある人物の固有名として扱われつつ、男性という性をもつ人間全体を指す言葉としても扱われているように思える部分もあることだ。あるときは「ハンス」がとある一人の人物を示し、その人物の人格・性格・行動を表しているように見えるが、またあるときは「ハンス」は複数人のように見えその中にある普遍について語られもする。しかし、それぞれの使われ方をよく見ると、一貫性が見つけられた。 そう、わたしはこの理屈を学んだ。誰かがハンスという名でなくてはいけないこと、あんたたちがみんなハンスという名前だということ。一人また一人とハンスが現れるが、ハンスはたった一人なのだ。この名前がついているのはいつもたった一人、その一人をわたしは忘れることができない。( p.289 ) この部分では、ハンスは次々と現れる存在である一方、ウンディーネがハンスとして認識するのは一つの瞬間に対し一人までだとされている。 いつの日かその愛から解放されたなら、水のなかに戻らなくてはいけない。(中略)———そしていつの日か、思い出し、また浮上して、空き地を通っていき、彼を見て「ハンス」と言う。また初めから、やり直す。( p.291 ) またこの部分では、あるものから愛情を注ぎこまれるのを終えたとき、地上世界から移動して水中に潜り、またいつか浮上して「ハンス」に出会うと書かれている。ここで興味深いのは水中から浮上して初めからやり直す相手のことを、「彼」という言葉をつかってまるで既知の存在であるかの...