希望と楽観の違い
最近気になっている「希望」と「楽観」の違いに関して、考えていたことの記録。 前提:システムで定義された共同体が語る希望は曖昧な楽観 何らかの システム (→言語で説明し尽くせる範囲内で、一方に変化が生じると他方にも影響を及ぼす、という現象が連鎖してゆく構造)で定義された共同体にとって、多くの場合「希望」とは広義の「楽観」でしかない。 「あの 会社 (→雇用契約というシステムのもとで構成員同士の関係性が定義され、多様な指標を持って価値の定量的な比較が可能)には希望がある」と言うとき、おそらく何かすごい技術があるのか、あるいは今は業績が良くなくとも良い人たちが集っているのか、事態が好転するであろうという予測が立てられることを踏まえて言っている。この場合の「希望」は、「楽観」に含まれるあぐらをかいているようなニュアンス、言い換えれば負けフラグ的な不吉さを脱色している言葉に過ぎない。 国家であっても、政治家の言う「希望が持てる国づくり」などは、経済規模の成長や恒久的な平和の実現など、「未来が明るいと思える=楽観できる」ことを良い感じに言っている気がする。 「希望」という言葉が使われるとき、よくよく聞くと単なるざっくりとした楽観でしかないことは多いと思う。 すなわち、事態の好転を前提に物事を語るときそれらは広義の楽観であって、事態が必ず好転するからといって希望があると言い切ることはできない。 それぞれの完全なる対義語 完全なる悲観 完全なる悲観は、単なる事実。 外部環境(所属するシステム、プロジェクト、あるいは自らの物理的な生存)が好転し、維持される確率が「論理的・物理的に0%である」と確定し、その事実を完全に受け入れる。そして、その事実によって自らが被害を被ることも確定している。ただのカウントダウン。 完全なる絶望 こっちの方が難しい。例えば拷問や圧倒的な肉体的インシデント(疾患)により自らの主体を認識できない状態というのは完全なる絶望と言える気がする。あるいは、主体の状況が外部環境のシステムの結末と完全に一致している場合も、もはや [ 楽観↔︎悲観 ] が [ 希望↔︎絶望 ] と完全一致しているので、いったん完全なる絶望(希望も絶望もない、その価値観自体が絶えている)と言えるかもしれない。 いくつかの観点 1. シチュエーションで考える 1-1 状況が良くなる合理的根拠...