このテーマに関する個人的な感覚
資本主義とグラフィックデザイン / このテーマに関する個人的な感覚
コンペティションと資本家
- グラフィックデザインのコンペティションを行う業界団体は、基本的には資本家層(デザイン事務所の経営者や広告業界の上層部)によって運営される
- コンペティションの開催によって、業界の労働者を格と名誉のゲームに参加させることによって、プライドから来るアドレナリンによる酩酊で労働者たちを熱狂のムードに巻き込んで目をキラキラ輝かせながら最低賃金で働く“新人賞候補”を作り出し、資本家に有利なゲームをセッティングしているのだとすれば……?(=グラフィックデザインの祭り化)
- 「競争は教育の根源」(福田赳夫、1978)
- ひっかかりニーチェ『【永野×くるま】フィンランドに行ったらお笑いが必要ないことに気づいた永野』2025/02/07
- 別にデザインに限った話でもないか
- 長時間労働がちな会社ほど社内アワードに熱狂する
「界隈」カルチャーとコミュニズム
- 戦後日本のグラフィックデザインが掲げてきたハイソ至上主義が流行らなくなった結果、落とし所として公立美術館/オルタナティヴスペース/電子音楽に関する「界隈」カルチャー的なグラフィックが浮上
- 芸術的資産のディールとして(保険会社がゴッホの絵を落札するかのように)ビジネスの色艶とともに作られるデザインが「ハイソ至上主義」だとしたら、「界隈」カルチャー的なグラフィックはマブダチ達の中で花を贈り合っている
- 本音で語り合える間柄同士の深いコミュニケーションとも言えるし、言葉を交わさなくても同じことを思える間柄同士の浅いコミュニケーションとも言える
- 「Graphic Designers, Be Anarchy!」(保坂健二朗 東京国立近代美術館主任研究員、2014)→言うなれば、深いコミュニケーションをしたいという欲望が見当たらないのだ。
- 「界隈」カルチャーの中でお金を移動し合いながらグラフィックが生産されるのはまさにコミュニズム
- マイメン達みんなで豊かになる
- コンサルっぽいデザイン会社を、表現に軸足を置いたデザイナーが「資本主義的」と批判する構図
ハイソこそ正義とした日本の戦後グラフィックデザイン業界には2010年代は予想外でもあった。「爆買い(2010~)」あたりから露骨なハイソ・洗練の大量消費が品がなく映り始める一方、「ノームコア(2014~)」的価値観が始まり、あらゆる所得層がスタバ・ユニクロ・iPhoneの過剰包摂社会が加速。
— 望月良輔 (@nhew_mo) July 5, 2025
コミュニズムとコレクティブ
- ちゃんとneighbyにも言及したい
- デザイン・コレクティブとは何かを書いた卒業制作「デザイン・コレクティブの時代」に入れたデザイン・コレクティブの3要件が共産主義すぎる
- 構成員同士にヒエラルキーがなく
- その間柄の基礎は「所有」でも「共通」でもなく「共有」であり
- 全構成員が同じ負荷量のrole(役割)を負っている状態のデザイン制作集団
- あいつの卒業研究だけ赤くない?(エディ研メンバー)
グラフィックデザインに値段がつくのは何故か
- 人口比で、「良し悪しの基準をつけることができる人」>「グラフィックを形にできる人」であることが必須条件
- グラフィックデザイナーがもっと儲けるためには、「良し悪しの基準をつけることができる人」をさらに増やすか、「グラフィックを形にできる人」を減らす必要がある
- 後者はAIやらCanvaやらを見ると期待できそうにないので、前者を増やすしかないか?
- デザイン思考やデザイン経営はその点で優秀なスキームではあった
デザイナーが一人もいない世界の方が良い世界?
- 先日のneighbyミニゼミにて、グレーバーのブルシット・ジョブ理論やケインズの1日3時間労働予想を話したあと議題に挙げてみた
- この話は「デザイン全般」とすると大量の例外が出てくるので、できる限り分野を限定した方がいい
- たとえば「米」ならどうか
- 青森のブランド米「青天の霹靂」は極めて優秀なクリエイティブ・ディレクターのもとで極めて優秀なコピーライターが商品名を書き、極めて優秀なデザイナーがパッケージや広告、ウェブサイトを制作した
- でもよくよく考えたら、農家の方はがんばっておいしいお米を作っただけなのに、なぜえらく長い肩書きの「クリエイティブ業界」の方々に莫大なお金を払ってウェブ会議に参加しないといけないのか?
- おいしいお米を作るのにかかったお金を回収するには良い「クリエイティブ」が必要、というなら米づくり投じた資金を「クリエイティブ業界」に人質に取られている構図となる
- それはまるで、六本木でバーを開くには暴力団にみかじめ料を納める必要があるように、資本主義社会でおいしいお米を作って生活するにはデザイナーにみかじめ料を納める必要があるかのよう
- たとえば「青天の霹靂」のブランドデザイン全体に500万円かかったとして、それよりおいしいお米を作った人は少なくとも500万円以上を「クリエイティブ」に払わないと投じた資金という人質を殺される不安にかかる
- ブランディングとは同業他社の技術革新(のための投資)に対する脅かし
- もしも世界から「クリエイティブ業界」が消えたら
- 今まさにおいしいお米を作り終えた人は、クリエイティブみかじめ料500万円が浮くので、そのお金で頑張った自分へのご褒美にクラウンとか買えるかも
- これからおいしいお米を作ろうと決心した人も、クリエイティブみかじめ料500万円がなくてもお米づくりを始められるかも
- そうして、米づくりの技術がどんどん上がっていくかも
- 米びつに米を移した瞬間に捨てられるビニール袋のデザインにかかっているお金が浮いた分、もっとおいしいお米を研究することもできるかも
- そうしたら、世の中に更においしいお米が流通してみんなが幸せかも
- さすがにアホすぎる議論なのはわかる
- そもそも市場経済で「全人類のグラフィックデザイン意欲がゼロになる」という仮定に無理がある。グラフィックデザイナーが一旦絶滅したとして、おいしいお米を作ることに成功できた人は、せっかくなら良い感じの袋に入れて売りたいと思って村で一番絵が上手い人とかにお裾分けを持ってお願いしに行くかもしれない。そういうところから職業になって、結局またグラフィックデザイン業界が生まれるバッドエンド。
- 配給制じゃないと無理
- 問いたいのは、「全てのグラフィックデザイナーが、お互いがお互いの存在価値や存在理由を補完しあっている情けなさ」についてどう思うのか、という点(=グラフィックデザイナーの実存がグラフィックデザインの本質に先立つ)
- 「(世の中に)グラフィックデザイナーが居るから(ウチにも)グラフィックデザイナーが要る」
- ここに脅迫めいたニュアンスを感じるし、それに加担している自責も感じる
- だからこそ、「現役グラフィックデザイナーが解説」的な、知っている私↔︎知らないあなたというコードのコミュニケーションに嫌悪感があるし、業界団体や美大の中で戯れている(彼らの言葉を借りるならば「資本主義的じゃない」)グラフィックデザイナーの方が無害化されていて誠実さすら感じる
- 自分の職があって初めて世の中が動くエッセンシャルワーカーと比べて、グラフィックデザイナーは自分の職業の存在理由の裏付けに果実が無さすぎることを気にする人はいないのだろうか、という疑問
- 僕の考えとしては、ナショナリズムさえあれば全ての悩みが消える
- 「投資と回収を繰り返して『資本の運動』を繰り返すことで経済が成長していく、グラフィックデザインによってその運動を加速すれば、やがて日本という国自体が先進国として豊かになっていく。それを実現しているのだから、グラフィックデザイナーは『国家』にとって必要だろう」というロジック。国家国民のための奉仕をする仕事、というプライドを作ることでグラフィックデザイナーという職業の存在を納得に持ち込む。
- グラフィックデザインを監督する省庁は文化庁ではなく経産省
- でもグラフィックデザイナーって左派政党支持が多いよね
- 定常型経済ではグラフィックデザインは要らない
リスペクトと批評
- リスペクトという名のもとに、仕事内容への批評が起きづらい
- 失礼と批判の区別が必要
- デザインに批評が起きたことってあるのか?
バカで無邪気な若者、というアイドル
- うっすらと共有される地下芸人憧れ
- それをキャラに仕立てて自らまとう「クリエイティブ業界」の若手、あるいは若手時代を話す老クリエイター
(随時更新……)