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モラトリアムなき時代の大学生たち

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この記事は「ReDesigner for Student クリエイター就活の手引きAdvent Calendar」の3日目です 🎁 https:// adventar.org/calendars/10308  この文章は、熊代亨さんの記事『思春期モラトリアムは資本主義に吸収されました。( https://blog.tinect.jp/?p=81463 )』に応答する形で書きました。引用は全て当該記事です。 1. 大学生の現在 2人に1人が奨学金を借りる社会における就活 紆余曲折あった僕の就職活動は、いまアシスタントをしているデザイン事務所にそのままデザイナーとして入る、という形にたどり着いて終わった。3年生の夏から冬にかけて、メーカー、広告代理店、コンサルティング会社、事業会社と、いろんな会社のデザイナー職のインターンや選考に参加した結果の選択である。道のりは長かったし、複雑に曲がりくねっていた。 よくいう就活の早期化というのは本当にその通りで、最初に就活に関するイベントに参加したのは大学2年生の3月だった。経団連ルールなんて聞いてあきれるほどの忙しなさである(いま振り返ると、別にこんなに早く始める必要はない)。 ただ実際には、就活は早期化しているというより長期化していると言った方が正しい。「早期」という言葉を意味通り使うなら早くに就活を始めた人は早くに終わってないと辻褄が合わないが、それはごく一部の話だ。そのごく一部の話がSNSでも現実でも耳に入りやすいので、まるで「早期化」している感じがするが、そもそも企業の一般での採用スケジュールは従来通り大学4年の3月1日からになっている場合も多く、インターン直結の早期採用ではそんなにたくさんの学生に内定を出さない。できるだけ第一志望に近い企業を目指そうとすると、早い時期から始めて最後まで就活を続ける必要がある。つまり「早く始まってこれまで通り終わる」という、「就活の長期化」が実際には起きている気がする。 日本学生支援機構「令和2年度 学生生活調査」を見ると、奨学金を借りている学生の割合は昼間部の大学で49.6%だ( https://www.jasso.go.jp/statistics/gakusei_chosa/__icsFiles/afieldfile/2022/03/16/data20_all.pdf )。国...

インゲボルグ・バッハマン『ウンディーネが行く』 における「おいで。」の意味を考察する

(授業内課題として提出したレポートに加筆修正を加えたものです。) 本レポートについて 本レポートでは、インゲボルグ・バッハマンの『三十歳』(松永美穂訳 岩波文庫)に所収されている短編小説『ウンディーネが行く』について、まず作中内で「ハンス」と呼ばれる存在がどのようなものであるのかについて考察し、それを踏まえて結末部分の「おいで。」が表すものについて考えを論じる。引用はすべて『三十歳』(松永美穂訳 岩波文庫)である。 ハンスとは何か まず「ウンディーネが行く」というタイトルながら本文中でむしろウンディーネより詳細かつ熱っぽく語られる「ハンス」という存在について、これが指し示すものが何なのかを本文を引用しつつ検討する。 「個人」と「一般」との間で揺れる不安定な名詞 作中での「ハンス」について考えるとき、最初の難関は「ハンス」という単語がある人物の固有名として扱われつつ、男性という性をもつ人間全体を指す言葉としても扱われているように思える部分もあることだ。あるときは「ハンス」がとある一人の人物を示し、その人物の人格・性格・行動を表しているように見えるが、またあるときは「ハンス」は複数人のように見えその中にある普遍について語られもする。しかし、それぞれの使われ方をよく見ると、一貫性が見つけられた。 そう、わたしはこの理屈を学んだ。誰かがハンスという名でなくてはいけないこと、あんたたちがみんなハンスという名前だということ。一人また一人とハンスが現れるが、ハンスはたった一人なのだ。この名前がついているのはいつもたった一人、その一人をわたしは忘れることができない。( p.289 ) この部分では、ハンスは次々と現れる存在である一方、ウンディーネがハンスとして認識するのは一つの瞬間に対し一人までだとされている。 いつの日かその愛から解放されたなら、水のなかに戻らなくてはいけない。(中略)———そしていつの日か、思い出し、また浮上して、空き地を通っていき、彼を見て「ハンス」と言う。また初めから、やり直す。( p.291 ) またこの部分では、あるものから愛情を注ぎこまれるのを終えたとき、地上世界から移動して水中に潜り、またいつか浮上して「ハンス」に出会うと書かれている。ここで興味深いのは水中から浮上して初めからやり直す相手のことを、「彼」という言葉をつかってまるで既知の存在であるかの...

2023年の振り返り&来年の抱負

  「今年1年のまとめ」とか「来年の制約と誓約」とか、今日noteにあげとくと有意義やで。 数年後に見直して、毎回ためになってる — 深津 貴之 / THE GUILD / note (@fladdict) December 31, 2023 とのことだったので、書いておこう。 成人した 未だに20歳超えたのが信じられん。 就活が始まった 今年はほとんどこれの年だった。Googleカレンダーを見返してみたら1/23にVivivitのポートフォリオ制作講座に出たのが就活らしい就活の始まりだった。内定がほしい。 藝大の卒展を見に行った 刺激的でした。ここで観た 須田日菜子 さんの作品が好きだった。来年また展示があったら足を運びたい。 この投稿をInstagramで見る 須田日菜子(@dochirademoiiyo)がシェアした投稿   八王子に引っ越した キャンパス移動に伴って、相模原市緑区橋本から八王子へ。八王子は駅前が便利でラーメン屋が多いのがいいけれど、橋本も大きいスーパーとかホームセンターとかがあって良かった。いい街だった橋本。 鎌倉に写真を撮りに行った 超楽しかった。 初めて応募したインターンに書類で落ちた そんな甘いもんじゃないと知った日。 初めて応募したインターン普通にブチ落ちたけど安いもんだ涙の一、二滴 — 望月® (@nhew_mo) March 2, 2023 バイト先が閉店した 「ご愛顧ありがとうございました!」と言っている店長と一緒にシャッターの奥で頭を下げた。通りがかりの人も拍手とかしてくれて、不意打ちで感動させられてしまった。 免許をとった もう少しで初心者マークをつけなくても良くなるが、運転の機会が本当にないので、初心者マークをつけ始めた頃より初心者という皮肉な状況。 実家に帰って運転を練習するより、自動運転が実用化されるのを待った方が早い気がしている。 フジシール財団の奨学生になった これは本当に大きかった。実際には貸与のJASSO奨学金も借りているので、その返済と相殺しようとしているため生活が何か変わったというわけではないが、お金の心配が減るのはやっぱり大きい。これのおかげでバイトをやめてデザイン事務所でのバイトを集中して探すことができた。 デザイン系の学生も多く、おすす...

無の不気味さとLiminal Spaceという美学

(授業内課題として提出したレポートに加筆修正を加えたものです。) 無という不気味さ 無臭の世界 無臭である。先日、新型コロナウイルスに感染した。幸いにもそれほど症状は重くなく3、4日で熱も下がり、喉の痛みも引いてきた。倦怠感も一時期のことを思えば回復し、なんとかこのレポートは締切間際に提出できるかというところだが、嗅覚障害が一向に治らない。 無臭の世界というのはなんとも不思議な感覚である。味覚の方は幸い影響ないのだが、しかし食事がまったくもって楽しくない。だしの香りなどというものは微塵もせず、味噌汁もお吸い物もただの塩辛い汁である。和食というのは鼻が効くやつの道楽であると知った。 コロナ後遺症外来を専門に診ているヒラハタクリニック平畑光一院長のブログを参照すると、この『無味無臭』の世界というのは「人によっては死にたくなるほど辛い [1] 」そうだが、その気持ちも十分理解できる。この世に当然あるはずのものが欠如しているという状態は、なんとも不愉快なのだ。 無とはuncomfortableである この例に限らず、「無」とは本質的に奇妙・不気味・不快・不自然な一面を持っていると思う。ここではそれらの総称としてuncomfortableというのを用いることにする。 例えば、無言の食卓というのは多くの人にとってuncomfortableである。家族みんなが食卓に集い同じ鍋を囲んでいるというのに、全員が無言で皿と箸の触れる音だけが響いているお茶の間を見れば、おそらく誰もが不気味で奇妙だと思うに違いない。 また、例えば寝相が悪く頭で腕を押し潰しながら寝てしまい、血流を止めてしまって腕が痺れ、目覚めたとき腕から下の感覚が無くなっているというのもまたuncomfortableである。物を触っても痺れて感覚がないという奇妙さは、誰もが経験したことのあるものだろう。 無の空間というネットカルチャー Liminal Spaceとは何か さて、このような「無」が本質的に持つuncomfortableな性質が、海外のインターネットカルチャーの中で面白がられ、一つのmeme(ミーム: 一つのアイデア、行動、スタイル、または使用法が、人から人へと模倣を通じて伝播する現象 [2] )となっている。 Liminal Spaceというのがその名前だ。インターネットカルチャーやオンライン上での現象を専門的...

文学フリマに向けてzineを作っている

 こないだのMETAZINE 01に引き続き、文学フリマにも出品することになりそうなので、せっせと文章を書いている。 文学フリマについては→ 第三十四回文学フリマ東京(2022/05/29) | 文学フリマ (bunfree.net) METAZINE 01には写真のzineを出したけれど、今回は写真のzineを作っている時間は無さそうなのでエッセイみたいなものにしようかと。前回の写真のzineはかなり手間も時間もかかった。Instagramに毎日のように投稿しているフォトグラファーには頭が上がらない。 黒歴史にならないように、ならないように、と文の内容を考えていたけれど、そもそも学生がエッセイを…という時点でもう既に片足突っ込んでる気がするから考えるのをやめた。 ある雑誌を買って読んで、割と興味のあるテーマを取り扱っている文章を読んだのにあまりにもピンとこなくてビックリした 自分自身の恥を晒す気のない文章ってこんなにつまらないんだと驚いたし、反省もした 格好つけて文章を書くのは絶対によした方が良い — 紺 (@aky_synes) January 9, 2022 いつも原稿を書こうとPCを開くとき、このツイートが頭をよぎります。